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科学博物館(上野)、古代オリエント博物館(池袋)見学

ようやく趣味の記事が書けることになりました。

梅雨の明けた海の日の連休は、家族を連れて東京の博物館を見に行きました。

21日が最後となる上野・科学博物館では、
「Dr.NOGUCHI 世界を勇気づけた科学者・野口英世」展を見てきました。

猪苗代の野口英世記念館にも貴重な資料が目白押しで陳列してあるのですが、科博では猪苗代では見ることのできない物も多くあると聞き、3週連続で上京しました。



科博入り口のポスター。
企画展でも常設展だけの600円の入場料でOKです。



入り口で撮影はできるかどうか聴きましたが、『存分にお撮りください』とのことで、遠慮なくバシバシ撮ります。



野口博士の生誕から猪苗代の幼少時代や、医学を志すきっかけとなった会津での火傷の手術、また渡米してからの研究生活などが貴重な資料として展示してあります。
写真は、猪苗代での小学校時代の学業優秀を表彰されたものなど。



野口清作から野口英世に改名したことはよく知られていますが、なぜ改名したか、その理由を知る人はあまりいないでしょう。

野口博士が7歳の時に出版された坪内逍遙の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』に、主人公で東京帝大医学部に籍を置く、野々口精作という書生が登場します。

この書生がたいへんなぐうたらで、『志を得ざれば再び此地を踏まず』と上京に際して決心した野口博士にしてみると非常に具合が悪く、そのため恩師の小林栄先生に相談して名を変えた、ということです。



また野口博士は、日本で一番最初にカラー写真で撮影された人物だと言うことです。



ロックフェラー研究所の正職員、研究員として数々の研究成果をあげ、寝る間を惜しんでの研究は『ヒューマン・ダイナモ(人間発電機)』と呼ばれたほどだったそうです。

その後アフリカ・ガーナに渡り、アクラで黄熱病の研究をしていて、博士自身も黄熱病に感染して10日目に51歳で亡くなりました。

写真はロックフェラー研究所への野口博士の死亡の知らせと、ガーナの当時の植民地知事が発行した野口博士の死亡診断書。研究所長のフレキスナー博士はこの報せを読んでどんなにか衝撃を受けたことでしょう。



野口博士の死亡診断書には、なぜか52歳となっています。Religion-Christianとあり、渡米した博士がキリスト教信者であったことも分かります。



黄熱病で死亡したものは、現地で火葬したり土葬したりするのが普通でしたが、野口博士はその偉業から解剖後に金属の棺をハンダで密閉してアメリカ本国に送られました。これは異例中の異例で、石油王ロックフェラーの命であったとのことです。

野口博士を解剖したウイリアム・ヤング博士も、8日後にはやはり黄熱病で死亡します。

アメリカ本国にもどった野口博士の遺体は、ニューヨーク市郊外のウッドローン墓地に埋葬されました。

墓碑には
『1876年11月24日、日本の猪苗代に生まれ、1928年5月21日・アフリカのゴールド・コーストに死す。
ロックフェラー医学研究所正員である野口英世博士は、科学への献身により、人類のために生き、人類のために死せり』と書いてあります。

写真は墓碑銘のレプリカ。



展示場の片隅には、野口博士へのメッセージを贈るコーナーがありました。
このような地味な企画展でも、熱心に見入る子供たちがたくさんいて、本当に感心します。


うだるような暑さの中、今度は池袋に移動します。
サンシャイン・シティにある古代オリエント博物館を見学します。

ここは会場内は撮影禁止ということで、展示場外の廊下だけ撮影しました。

目的は
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」見学です。




特別展がないと、ホントに人気のない博物館ですが、今日はずいぶんと人がいます。



お目当ての、青いカルトナージュ棺のミイラは廊下の写真だけ撮影。

以前、科博でミイラ展を見てきましたが、そのときほど人はいなくてゆっくり見ることができました。



家で留守番している愛犬のお土産。
蓮田SAで購入の犬用のお弁当。

国産地鶏の雑炊とか。。我が家の犬は3秒で完食しました。



犬用のお手ふきと、おやつ付きで630円ナリ。